2012年02月18日

蔚山町と加藤清正



蔚山町: 「蔚」は、当用漢字にはありません。
「うるさんまち」と読みます。

文禄・慶長の役で、豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮侵攻した事件がありました。

その際に、加藤清正は何千人という朝鮮人も引き連れて帰還したといいます。
その人たちが住まった地域が、今なお地名等として残る「蔚山町」だといわれていいます。
現在でも、「蔚山町駅」として路面電車の地名に残されています。

1600年に江戸幕府が開かれ、やがて加藤清正の死後、
朝鮮の僧侶が将軍に謁見し、朝鮮の侵略を二度としないように申し出たといいます。

初代将軍・徳川家康は、これに対して鎖国を行う準備があることを伝え、
その僧侶が蔚山町の朝鮮人の帰還を願い出たため、
おおよそ3000人が船で帰国したといいます。

ところで、現在の大韓民国に蔚山市があります。
そこが、熊本市の「蔚山町」の朝鮮出身住民の生まれ故郷であったと思われます。

韓国の蔚山市は、今や韓国一のGDPを誇る近代都市として発展を遂げているといいます。

しかし、こうした朝鮮侵略の経緯から、
蔚山市の熊本市への感情は言い訳がありませんでした。

それを様々な人間関係などから悪い感情を解し、
いまや「熊本市&蔚山市」が友好都市締結を果たすまでに至っています。

そのきっかけは韓国・蔚山市長が、
今も残る「熊本市の蔚山町駅」の地名に感銘を受けたからだとも聞きました。

歴史の重みを感じつつ、両市の未来志向の取り組みを期待したいですね。

ところで、昨年は加藤清正が生誕450年、没後400年だといわれました。
それを記念して様々に行事も行われたようです。

その取り組みの一つに
「『NHKの大河ドラマ』に加藤清正公を!」という運動もあります。

加藤清正公や子孫などのゆかりの地でも着実に署名活動も集められています。
全国各地からも、是非、ご協力をお願いいたします。

お問い合わせは、熊本市に近い方は、
 ・加藤神社 の湯田宮司
 ・加藤清正 記念事業実行委員会 の荒木章博委員長

加藤清正公の生誕地である名古屋市中村区に近い方で、
歴史に興味があり、署名にご協力いただける方はメールください。
posted by mio at 11:22| 加藤清正

2012年02月16日

熊本城を二日連続で見学



2日間にわたって熊本城を見学しました。
それでもなかなかいい写真は撮れません。

単に見学だけなら2時間程度でもいいかもしれません。

全体をカメラに収めることは出来ませんでしたが、
ビュースポットの一つ・熊本市役所14階のレストランからの眺めです。


この日食べたのは最も安い1050円のランチ。
ま〜、入場券がわりみたいなものかもしれませんが、
お味の方は、お値段とぴったりといった感じ。

むしろ、ご飯を少なめにしていただきましたが、それで十分でした。

団体客で埋まることもあるようで、お昼の時間帯を少しばかりずらして
食事ながらに行くといい景色を見ることができると思います。
posted by mio at 23:10| 熊本城

2012年02月15日

加藤神社と熊本城宇土櫓



熊本城を訪れたのは夕方4時を過ぎていました。
まずは慌てて宇土櫓に足を運んでみました。

実はこの宇土櫓は当初は国宝だったといいますが、
残念ながら陸軍が駐屯した際に内部に改装を施していて、
それが原因で重要文化財の指定に格下げとなっています。



上記の写真の通り、当時の木造のうえに、鉄のX掛けが施されてしまってリンクを挿入います。

文化的価値は、当時のものがそのまま維持される事が重要ですが、
大きく修繕されていたことから管理の在り方を文化庁から指摘を受けたようです。

夕方5時で熊本城は閉門となりました。

その後、周辺を散策し、加藤神社にも訪れて、参拝しました。



この地に建立されたのは50年前ですが、
江戸時代末期に建立申請し、明治4年に錦山神社として始まったといいます
posted by mio at 02:10| 加藤清正

2012年01月20日

ホテルニューオータニ中庭〜加藤清正に関わるパワースポット

東京の千代田区紀尾井町にある
ホテルニューオータニの中庭は400年ほど前に
加藤清正の下屋敷があったとされています。

この場所は岩盤層であり、
当時は泉が湧いていて、清泉として残ったようです。

そこが現在、清泉池となり、
小さな滝は流れ落ちる水がイオン効果を生み出し、
その落ちる水音と共に癒しの効果を醸し出しています。




このパワースポットは、
カップルで訪れると、良い相手とならその関係が進展するといいます。

-----------------------------------------------
ホテルニューオータニ
〒102-8578 東京都千代田区紀尾井町4‐1
TEL. 03-3265-1111
FAX. 03-3221-2619

 ★交通機関
赤坂見附駅(地下鉄 銀座線・丸ノ内線)  D紀尾井町口 3分
永田町駅(地下鉄 半蔵門線)  7番口 3分
麹町駅(地下鉄 有楽町線)  麹町口 6分
四ツ谷駅(JR 中央線・総武線、地下鉄 丸ノ内線・南北線)  麹町口・赤坂口 8分
posted by mio at 15:56| 加藤清正のパワースポット

2012年01月15日

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2012年01月14日

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2012年01月13日

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2012年01月12日

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2012年01月11日

熊本城築城までの戦国時代の熊本

加藤清正が熊本城を築く以前は茶臼山に城があったといわれ、
四つ木(代継)神社が祀られていたといいます。

清正が入国するまでの肥後は、長らく
薩摩の島津氏・豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏などによる
領土の争奪戦が繰りひろげられていました。

15世紀後半の記録からすると、
肥後の守護職であった菊池重朝の代官であった
出田山城守秀信(いでた・やましろのかみ・ひでのぶ)が城主となって
現在のNHK熊本放送局のある丘に千葉城が築かれたといいます。

菊池氏は、やがて出田氏の勢力が弱くなるのを見て、次の代官に
有力豪族の鹿子木三河守親員(かのこぎ・みかわのかみ・ちかかず)をすえました。


そして、鹿子木氏は任官と同時に城を千葉城から古城に移します。


古城は、薩摩街道・豊後街道・肥前街道などが交差する街道の起点に近く、
ここが隈本城、あるいは古城と呼ばれるとなります。

その鹿子木氏が隈本城に入城する頃には、菊池氏は弱体化していきます。
当主の菊池重朝(きくち・しげとも)が亡くなり、
肥後守護職である菊池家では当主の座をめぐる叛乱が起きます。

当初、菊池武運(たけゆき)が次の当主に名のりをあげますが、
家臣団が優勢となり、豊後国守護の大友義鑑(よしあき)の弟・義
に菊池姓を継がせることとなり、鹿子木氏もこうした動きに対して
大友氏の勢力に取り込まれていきます。


しかし、大友義鑑と菊池義武兄弟の不和が大きな争いに発展して、
弟の菊池義武は劣勢となり、古城を追われて肥前に亡命します。

その時、人吉地方を治めていた相良(さがら)氏が菊池義武に加勢して
古城に攻めましたが、落とすことが出来ずに退却しました。


ところが、優勢だった大友義鑑が家臣によって暗殺されてしまいます。


菊池義武は、これを好機として古城に入城を果たします。

しかし、暗殺された義鑑の子である大友義鎮宗麟(よししげ・そうりん)は、
謀反を起こした家臣の誅伐を果たして、
義武と鹿子木氏を古城から追い出すことになりました。

ついに菊池義武は自害し、
大友氏に協力した城親冬(じょう・ちかふゆ)が新しい古城城主となり、
豊臣秀吉の九州平定で城を明け渡すまでの間、城氏三代の統治が続きました。


秀吉は、九州平定に従軍していた佐々成政に肥後の統治を任せます。

しかし、佐々成政が進めた検地をめぐって、不満が募り、国衆一揆が発生します。

一揆は古城にも及び、城を攻め寄せますがなかなか落とすことができず、
やがては多くの国人が自滅していきました。

佐々成政も、秀吉からこの一揆の責任を問われ切腹させられました。

その後、秀吉は肥後の国の北半分を加藤清正に、
南半分を小西行長に与えます。

肥後の国に入国した清正は、古城を居城として、
まず川の氾濫対策に重点を置き、
地域の防衛力の強化と米の生産力を向上に力を尽くしました。

国を治めることに十分な余裕もないまま、
清正は秀吉の命によって朝鮮へと出兵します。

清正は、二度にわたる朝鮮出兵で過酷な籠城戦も経験することになり、
その体験から日本には例を見ない石垣構築の土木技術を学び、
万が一の籠城に備えた非常用の食糧備蓄や井戸の重要性を認識します。

朝鮮出兵で秀吉は無理を重ねることとなり、
死期を早める結果となりました。

秀吉亡き後は、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下を治めていきます。

清正は、この関ヶ原の合戦で徳川方で参戦しましたが、
西軍の石田三成方で戦った小西行長は処刑されて、
清正は行長が治めてきた肥後半国を併せて肥後一国を領することとなりました。


朝鮮出兵前から、
既に熊本城の本丸石垣の工事などには着手していたようですが、
関ヶ原合戦後の1601年から、茶臼山の丘陵地帯に大きな城を築き始めます。

茶臼山丘陵地帯は、九州最大の熊本平野の南西に突き出たところに位置し、
各地に自然の浸食でできた崖があり、
周囲には白川・坪井川・井芹川といった河川が流れていて、
北・西・南の三方は湿地帯や沼地であったことから、
軍事上は攻め難く守りやすい地形だったようです。

清正はそこに目をつけました。

更に、河川が近いことから井戸を掘ると良質な水に恵まれていました。

清正は、侍屋敷の場所を定めると共に、
商人や職人の町も配して移り住まわせた。

1607年には大きな城が完成し、熊本城と命名されますが、
同時に町の名前も「隈本」から「熊本」に改名されます。


城下町の面影を残す現在の熊本市中心地の原型は、
このときの加藤清正の町割りが色濃く残っています。

熊本城の天守閣近くに加藤神社が鎮座し、
今もなお、崇敬を集めています。

posted by mio at 15:16| 熊本城